
「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」(創世記1章26節)"1 と神様は語られました。永遠という時の中、世界の基が築かれる前に、永遠の三位一体なる神様が治めておられました。最初や最後がない永遠という中に、「我々」と自らをお呼びになった三位一体の神様がおられました。 栄光の父なる神は、素晴らしい偉大な霊であり、聖さと清い愛で輝くお方です。この方の一人子イエス・キリストは、父なる神のことばの「生きた型」であり、神ご自身の現れでした。 イエスの御顔には、父のうるわしさが輝いていました。 彼らの完全な愛から、聖霊様という主であり私たちに命を与える霊が神の目的を果たす為に聖なる力をもって私たちに遣わされました。 これらの3つの存在(父、子、聖霊)はそれぞれの人格をお持ちになっていますが、お一人の神です。そしてこの三位一体の神が、「神は愛です」(第一ヨハネ4章8節)というご性質を具体的にかたちとして表すために、彼らの似たかたちに人間を創造されました。神ご自身の心の表れとして、神の発した「ことば」から、人間が創造されました。神が創造されたこの地球に、神ご自身もおられ、数々の素晴らしい創造のわざを、この地球でなされました。そしてこう言われたのです。「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。」(創世記1章31節)"3
彼の御名とご性質を表す目的 のために、私たちをご自身の息子、娘として、人間の家族として創造されました。これは何という栄光に満ちた人生なのでしょう!「我らは神の中に生き、動き、存在する」(使徒の働き17章28節)4 とある通りです。それらの人々と神との結婚契約の関係を通して、全ての必要が満たされるのです。これらの、神に愛された人々は御子イエスの主権のもとに、彼の永遠の御国を、王や祭司として、この地上で治めていくのです。神の栄光と愛を分かち合いながら、聖霊の力によって生き、特に神様からの声に応答しない人々に対してそうするのです。 全能なる神様は、ご自身の知恵により、その御心に沿って人を造られました。人には創造主である神を受入れるか拒絶するか、その自由意志を与えてくださいました。そうでなければ、私たち人間は選択権の無いロボットのような存在になってしまうからです。
神様の最初の子供たちであるアダムとイブは、全てが神様に支配された光り輝くエデンの園で罪のない生活をおくっていました。愛である唯一まことの神様だけが中心の生活をおくるなかで、人は園にあるいのちの木から自由に実をとって食べていました。しかし、神様が食べる事を禁じた唯一の木、善悪の知識の木の実を、ヘビに化けた悪魔にそそのかされて、人が食べてしまった時、この素晴らしい神様と人との関係が壊れてしまったのです。 この木について神様はこう言われました。「この木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(創世記2章17節)"5
光の世界から闇の世界へと落ちてしまったアダムとイヴは、その身に帯びていた栄光をはぎ取られてしまいました。恐れ、自分たちが裸である事と、罪を犯したという責めから、彼らの創造主、また友であった神様から隠れてしまいました。神様が彼らを呼び、彼らの反抗について問われた時、まず彼らは自らの過ちを認めようとはしませんでした。人間の神様との完全な関係というものは非常に短いものでした。最初の人間が、自らの意志により神様から離れる事を選び、私たちの命、そしてその源である方から離れてしまいます。「神のように善悪を知るものとなる」(創世記3章5節)6 ような欲望を人間の自己中心と高慢な心は求めたので、罪ののろいと死が、全ての人間のうちに入ってきました。神は次のように言われました。「罪を犯した者、その人が死ぬ」(エゼキエル18章4節)"7
「光と闇とに何のつながりがありますか」(第二コリント6章14節)"8 聖なる神様は、罪人と共に住むことは出来ず、その罪を見る事も出来ません。でも、「あわれみの父」である神は、創造した人間が堕落してしまっても、すぐに救いの手を延べてくださり、動物の血を流すという犠牲をもって人の罪を赦されました。「皮の衣を作って着せられた。」 (創世記3章21節)9 とあるようにアダムとイヴの裸を覆う着物をくださいました。神によるこのような関係回復の働きは、神の愛と清さからくる犠牲を表すものでした。天地創造の時から屠られる子羊が用意されていた(黙示録13章8節)10 のであり、これは、私たちの罪の代価を支払い、私たちをあがなうためでした。その時から動物の血を流しては人間の罪を覆うという事が続けられ、最後にはカルバリで神の子羊、イエス・キリストの血を流す事によりこの世の人々の罪を取り除き清めるという事を完成されたのです。
私たちの最初の祖先が反抗という選択をしたゆえに、人間の世界は堕落した世界になり、神様の存在に対して盲目になり、自己中心な性質が増大していったのです。人はその一生を終えると、もともと「土地のちり」であったので、また「ちり」になります。神の似姿に創造された私たちには栄光の未来が約束されていたのです。そして、私たちを永遠に愛し, 全てを治める主は、私たちの敵、サタンを呪い、サタンの仕業によって堕落してしまった人間のために、救いの手を差し伸べておられる事を全ての預言に見ることができます。
「お前(サタン)と女(イヴ)、お前の子孫と女の子孫(イエス)の間に、私は敵意を置く。彼(イエス)はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」(創世記3章15節、ガラテヤ4章4節)11
このように、聖書の言葉は私たちの救い主、イエス・キリストが罪と死の力に打ち勝って、私たちの救いを完成してくださることが説明されています。カルバリでは十字架の木がイエスのかかとを砕きましたが、十字架につけられたイエスは死の苦しみにあいながら、「完了した」(ヨハネ19章30節) 12 と言われました。 彼の足下でサタンの頭が砕かれました。イエスが復活された時に信仰によって彼を信じる人々と共に彼は勝利を分かち合ってくださるのです。
人間の霊的な歴史を見ると、創世記にはアダムの息子らカインとアベルが登場し、神様を創造者、備え主として認め、その御前に捧げものをもってきました。カインは「土の実り」(創世記4章3節)を、"13 そしてアベルは「羊の群れの中からの初子」(創世記4章4節)を捧げました。14 カインは、彼の高慢な心により、罪のための捧げものを持って来る代わりに、自分の手で作った偶像を神の前に持ってきました。この捧げものを神様は拒否されましたが、彼の弟、アベルが聖なる神の前に持って来た子羊(血の捧げもの)により、アベルは自らの罪の赦しの必要を表現し、この捧げものは神様に受入れられたのです。カインは、 その堕落した品性により、嫉妬と怒りを表し、アベルを殺してしまいます。このように罪と死が彼らを支配していた事がわかるのです。
時が進み、人が増えてくるにつれ、人間の創造主を人は意図的に無視する事を選び、神とその愛からさらに離れていきます。
「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。」(ローマ1章20、21節)15
今日、この世の多くの人々は、私たちの創造主の存在、そしてまた、このお方から私たちを引き離す「人の罪」という現実を真っ向から否定する世俗的なヒューマニズムの呪いの中に生きています。神の決して変わらない言葉である聖書の権威ではなく、進化論という「理論」を土台とし、ヒューマニズムは高慢にも、人間をその王座につかせ、創造の中心としています。創造物にすぎない人間は、その愚かさのゆえに自分自身とこの世界を滅びへと向かわせているのです。
今度は神の言葉の真実がどのように私自身の人生に表れてきたのかお分ちしたいと思います。私もかつては神様の愛や尊厳には全く盲目なヒューマニストであり、高慢で自己中心的な者でした。もちろんその頃は自分がそういう者だとは知りませんでした。キリストがただの歴史上の人物であるという考えの家庭と教会で育ち、この方を個人的には知らなかったので、この生ける主だけが与える事のできる彼の愛、喜び、安心などは得られませんでした。私が幼い時であっても彼を必要としていたのです。私は長女として生まれ、両親からのケアを全て自分だけが受け取りながら成長していったのですが、妹が生まれた時に両親の注意が彼女に向いたので私は本当にがっかりしました。嫉妬していた私の6歳の誕生日には亡くなった祖母が埋葬され、その日、私の心は特に拒絶を感じ、傷ついていました。彼女は私と特別な時間を過ごしてくれたので、私は自分が大切にされ受入れられていると心から感じていました。彼女を失った時、私は心の回りに無意識のうちに壁を築いていったのです。自分の中に引きこもっていった私は、自分の感情を表現できなくなっていきました。年齢を重ねるにつれ、私の感情は混乱しており、自分のセルフイメージも悪かったので、友達を作ることも困難でした。時には「うつ」にかかり、自分の事を愛する事も理解する事も出来なかった両親に対して怒りがこみあげてきたのです。私の中の傷ついた霊を堅くなった自分の心が守ろうと働いていたのです。
「人の霊は病にも耐える力があるが/沈みこんだ霊を誰が支えることができよう。」(箴言18章14節)"16
そのように自分を見失っていた私は、私の親友になりたがっておられるイエスキリストが私の心の扉をノックしておられる事を悟りませんでした。
「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。」(創世記5章24節)17
最初にアダムが神様を拒絶してから何世代も経った後、主なる神は人間の堕落を悲しみ、創られたものを裁かれ、新しいスタートを切られます。
「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって」(創世記6章5節)"18
神様を愛し、従う者には、神様はいつも恵みを与えてくださいます。ただ1家族だけが神様に立ち返り、全地を覆い尽くす洪水という怒りの清めから救われました。
「信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。」 ヘブル11章7節 19
ノアの家族は神様の御心にかなった者たちでした。彼等のうちに、人間のための神様の計画を見る事ができます。神が最初にアダムに与えた権威をノアは使ったのです。ノアのリーダーシップに応答した彼の家族は主に信頼し従ったので、神の目に義なる者達とされたのです。水が引いた後、ノアは石で作った祭壇の上にいけにえを捧げたので、全能の神はその応答として、その上の天にに虹をかけ、その後は洪水を使って、人間を滅ぼす事は決して無いという約束の印としてくださいました。 やがて、父なる神が彼の契約により、ご自身と人間を和解させてくださるように、神に対して、また人間が互いに愛する事ができるような心を与えてくださるでしょう。
私も私の家族も、聖書の言葉については無知でしたので、私たちに対する神様の約束や契約などについては何も知らず、神様を知らない私たちはこの世にあって、本当に希望の無い生活を送っていました。
「また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。」(エペソ2章12節)"20 感情的にも傷つき、人格も不完全だった私の両親も、堕落した人間の一部でした。両親はお互いに、どのように愛情を表し合って良いのかもわからず、いつも衝突して、 幻滅し傷ついていました。彼等自身も子どもであった時に、強い一致した家庭の要素となる温かい愛情などを受け取っていなかったのです。神様から心が離れていた彼等にも癒し、生き方が変えられるような赦しや愛情を必要としていたのです。
ご自身の創造された人間をご覧になりながら、神様に応答し、神の目的を地上で成就させる事ができるような人を探しておられました。神様はそこで、カルデヤ出身のアブラムという人に目を止め、彼にはご自身の契約について更にご自身を表してくださいます。アブラムは彼の信仰のゆえに、神様の「選びの民」であるイスラエルの父となり、この契約に従って、アダムの時に失われた人間と神様との関係の回復が起こると言われました。 何世代にもわたり人々は愛と信頼の絆で結ばれる血の契約へと入り、必要を覚えている兄弟に対しても決して出し惜しみをしないで助けるという神聖な忠誠を誓いました。誓約により互いの血を持って封印をしたのです。時には仲介者を間におき、誓約を交わす2人が正しくこの事を行い、この誓約が長く続くように証人となったのです。 アブラムが理解出来るかたちでアブラムに会いに神様が契約の条件に従って降りて来られる事によって、ご自身の約束をアブラムに対して守り、全能の神はその忠実さをお示しになりながら、もう一度、人間に神様に立ち返るよう、その方法を教えられたのです。偶像礼拝が行われていた神様の土地から、神の友と呼ばれるようになったアブラムを導きだし、アブラムを信頼された神は、アブラムを乳と蜜の流れる土地、カナンへと導くと約束なさったのです。
「イスラエルの人々は荒れ野を四十年さまよい歩き、その間にエジプトを出て来た民、戦士たちはすべて死に絶えた。彼らが主の御声に聞き従わなかったため、我々に与えると先祖たちにお誓いになった土地、すなわち乳と蜜の流れる土地を、彼らには見せない、と主は誓われたのである。」(ヨシュア記5章6節)21
神様は忠実なアブラムと彼の子孫を祝福し、彼等が神の子供として全てのものを相続しようとする時に、それを妨げようとやって来る敵に対抗できるように、より優れた力を彼等に与えました。全能の神はアブラムとその子孫を一方的に「神が所有する大切な民」として選ばれました。この選ばれた民を通して、「地上の氏族をすべて」祝福しようとなさったのです。主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」(創世記12章1〜3節)22 これに応答し、主なる神にアブラムは心から信頼し、信仰によってアブラムは神様とつながっていました。(E. W. Kenyon: "The Blood Covenant" (Kenyon's Gospel
Publishing Society, 1969), pg. 16. )23
でも、私たちの創造主は私たち人間の心を知っており理解しています。アブラムとてアダムの性質を引き継いでいる限り、絶えず神の前にいつも正しくあることはけしてあり得ない事をご存知でした。
しかし、私たちの創造主は私たち人間の心をご存知で、理解しておられます。アブラムでさえも、アダムの性質を引き継いでいる事を神はご存知でしたので、いつも神の前にアブラムが正しい人でいられない事は予測されていましたので、神様の恵みと、一方的な好意により、アブラムの信仰に従って、神様は契約を結んでくださいました。神様を信じたアブラムの信仰だけが、神の前に彼を義なる者としたのです。
契約の備えとして、神はアブラムにいけにえの動物を切り裂いて地面に置くよう命じられ、ここで流されたいけにえの血は神による契約であることを表していました。24 (創世記15章9節10節)アブラムが深い眠りについたころ、「燃えるたいまつ」が現れますが、(創世記15章17節)25 これは、2つに裂かれた動物のいけにえの間を通って行ったイエスキリストの臨在を表しています。神はアブラムに対して約束をされていたのですが、同時に、神の一人子、イエス・キリストに対してもその事をされたのです。 (創世記3章16節) 26 ある日、神様は神にあって神と人間の関係を回復させるために更に良い契約を結ぼうと思いをめぐらします。「親密な友情の契約」が結ばれた後、アブラムはその従順のゆえに、信仰によって義とされたという印として、割礼を受けました。 (ローマ4章11節) 27 この印は、契約に入る全ての男子が受けるべき印だったのです。このように、真実の唯一の神は、イスラエルの、そして、後に生まれて来る人々の父である、アブラムを通して結んだ契約は、今日まで続いているのです。28
アブラムとサラに対する父なる神の友情はどんなに素晴らしいものだったのでしょう。アブラムにはアブラハム(「諸国民の父」の意)、サラには、サライ(「王女」という意)の名前を与えたのです。(創世記17章5節、15節) 29 神様は彼等を訪れ、彼等が子どもを生ませる年齢を過ぎていたにも関わらす息子が生まれる事を約束され、信仰によってイサク(「約束の息子」または「笑い」の意)を身ごもりました。30 父なる神の心が表され、彼の王家としての家系がここから始まりました。神のご計画により、アブラハムの子孫がいずれ、イエス・キリストを身ごもりましたが、このキリストはイスラエルのメシア(救世主)でありながら、ご自分の民から拒絶され十字架につけられたのです。しかし、彼の拒絶は、アブラハムを通して約束された祝福を全ての人が受け取る事ができるようにしたのです。イエスは彼を受入れる全ての者に「神の子となる資格」をお与えになられました。31
アブラハムとその子孫は豊かになる祝福を約束されていたのですが、この契約の神様を信じたり信頼する事がありませんでした。カナンいたイスラエルの民のところにひどい飢饉という試練を計画によって神が送り、食料を探しにエジプトまで人々を導いて来られました。この世俗的で偶像にあふれた土地で、神の民は限界に達しました。王や祭司となるはずだった国民が捕らえられ、ファラオの奴隷となり、この異教の王国を建てるために容赦なく労働を強いられたのです。このようにサタンに縛られ、カナンからも遠く離れ、イスラエルの民は解放されたい一心で全能の神に叫び求めました。
旧約聖書を読んでいくと、この堕落したイスラエルのように私自身も主を知ったり、信頼しようとしていなかった事がよくわかります。現実にあった事もそうでない事からも私は傷つき、自己憐憫に陥った自分自身も、神様について読んだとしてもそれを受入れようとはしなかったのです。そのような私の心には、神ご自身や回りの人間に対する、反抗、苦い思いや、復讐心がいっぱいになっていました。絶えず緊張し、恐れに満ち、自分の夫に対して妻として接する事が難しく、私は私自身の限界まで来ていたのです。イスラエルの歴史が私の歴史でもありました。私を解放してくれる解放者が必要だったのです。
父なる神は、ご自身の契約を思い出しながら、モーセを起こして下さいます。このモーセという人は約束の地へと彼のイスラエルの民を導くためのリーダーであり、又、神の前に柔和であるという強さを持った人でした。32 「主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られ」33 ご自身を、エホバ(=「わたしはある」の意)という個人的なお名前で表されました。34 モーセとイスラエルの民に対しては、「過ぎ越し」を持って解放の際に彼等をお守りになりました。これは、イスラエルの民が脱出する事を妨げていたエジプト人の初子を殺すという裁きを下すために死の霊を送られた時の事です。全てのイスラエル人は傷の無い子羊を用意し、その肉を食べ、その血をドアのまわりに塗らなければなりませんでした。「血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つ時、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。」35 契約の血をもって超自然的にご自分の民を救われ、紅海まで安全に導き、目の前で水を分け、追っ手の敵であったエジプト人を海の中に沈められたのです。エジプトの手からイスラエルの民を救い出されたのは、神の一人子の傷から流れる血の力を通して、堕落した人間に父なる神が与える解放を意味しています。
カナンの近くの荒野で、エホバなる神はモーセに十戒という律法を与え、愛するイスラエルの民に、その契約に従って歩むように教えられました。彼等の中に共に住まわれたいと強く願われた神は、彼等の中に「会見の天幕」という、神を礼拝し交わる事ができる幕屋を建てるようにモーセに言いました。分厚い仕切の後ろには、至聖所という最も聖なる場所に契約の箱が置かれ、その中には十戒が置かれ、その上部には哀れみの御座という、イスラエルの聖なる神の臨在で光輝く場所がありました。年に一度の贖罪の日には、神が定める大祭司が生きているヤギの上に手を置き、全イスラエルの罪を告白し荒野へそのヤギを放っていました。その後、畏れながら中に入ってゆき、哀れみの御座の上に雄牛の血を贖罪、又は覆いを表すために振りかけました。 聖なる神は言われました「罪を犯した者、その人が死ぬ」36 そして哀れみをもって、こうも言われました。「生き物の命は血の中にある、、。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖ないの儀式をするためである。」37
この、毎年血を流して行われた旧約聖書の時代における律法の契約は、エホバなる神と人間との間にかけられた一時的な橋のような物でした。これによって、神は人間の罪に対して怒ったり、裁きから過ぎ越す事ができるようにしてくださる事により、ご自分の民に対する愛と忠実を示されました。しかし、これによって人の心にある事が明らかにされるようにもなりました。 「律法は年ごとに絶えず捧げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。」38 エホバなる神が人間に新しい心を与えるためにイエスキリストの血をもって封印されるさらに優れた契約を与える時が来るのです。
父なる神は、ご自分の民がこの世の生き方に縛られ、自分たちの神を知ろうと立ち上がろうともせず、彼等が相続するはずの祝福を自分たちのものとしないイスラエルの民を、忍耐と悲しみをもって何世代にも渡って見守られ待っておられました。神は彼等の神となられる事を切望しておられましたが、近隣の異国の人々の真似をして王様が欲しいと民は要求してきたので、地上における裁き司や王様を彼等に与えました。神の前に正しい指導者はイスラエルを神に喜ばれる方へ導きましたが、彼等の殆どの指導者はイスラエルの民を間違った方向へと導いたのです。異邦人との結婚などにより偶像礼拝が入り込み、祭司職にも汚職が始まり、血による捧げものは次第に忘れられていきました。罪を裁かなければならない義なる神の裁きが何度も彼等の上に下りました。 「罰すべき者を罰せずにはおかない。」39 今日の私たちの国、アメリカもこのイスラエルのように、先祖が信頼してきた神を見捨てているので、聖なる裁きがいつ下ってもおかしくないのです。アメリカがこの神に立ち返り、神の道を歩もうとしないのであれば、かならず滅びる事になるでしょう。
「神の心にかなった者」 40であり、アブラハムの子孫にあたる、ダビデがサムエルによってイスラエルの王として油注がれた(任命された)とき、 イスラエルの民にとって栄光にあふれた未来の前兆のような時が訪れました。聖なる神の臨在が表れている契約の箱をエルサレムへとダビデが運ばせると、神の民は神の前で喜び祝いながら歌い、自由に踊ったのです。ダビデ王とその子孫に、エホバの神はご自身の名前を置かれたエルサレムを中心とする永遠の王座と王国を約束しました。
ダビデの息子であるソロモンが治めていた時に「イスラエルの栄光」として、素晴らしい宮がこの街に建てられ聖別されました。しかし、この霊的なリバイバルもピークに達すると、ソロモンも後に他の神々に仕えるようになり、国はたちまち腐敗していきました。神の裁きがそこで下り、聖霊によって王国が分裂し、神の「選びの民」は地の果てにまで散らされたのです。神は彼等に定められた運命を成就するために、今日、彼等を地の果てから彼等の土地へと集めて来ておられます。メシア(救い主)がいずれお生まれになるイスラエルの部族、ユダ部族だけが神に忠実でしたが、その中のさらに少数の民(残りの民)が神を捨てる事は無かったのです。
エホバなる神は、義なる怒りによって、異邦人によってエルサレムが破壊され、宮が略奪され、ユダ族がバビロンの捕囚となる事について介入なさいませんでした。「わたしはさらって行くが、救い出す者はいない。わたしは立ち去り、自分の場所に戻っていよう。彼等が罪を認めて、わたしを尋ね求め、苦しみの中で、わたしを捜し求めるまで。」42 と、主は言われたのです。